
1997 VAN TOWN TAJIMI 現、VAN JACKET 多治見ショップです。 右は当時、特約店に飾られていた貴重なレリーフ。
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石津 『メンズクラブ』も、別にいつまでやろうといった計画はなかったんだ。
でも、いくら売れるか分からないから、
冒険はしたくない。少なくていいから損はしたくない、ということだった。
だから、最小限度は三万部くらいだったかな。
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くろす そう、最初は『婦人画報増刊男の服飾読本』と言ってましたね。
定期刊行物じやなくて、一年に二回くらい出るだけで。
だから、『メンズクラブ』は本当にVANと二人三脚で育ってきたという感じですね。
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石津 『男子専科』が当時リーダーシップを持っていたもんだから、
何かと比較される。『男子専科』のほうは、
こちらのことを「何だ、あの子供の着る服」と言い、
こちらは「あんなジジイの着る服」という調子だったが、どちらも質は高かったね。
そういえば、『メンズクラブ』は毎号全部売り切れたんだ。というのは、
三万五千部くらいのうち、二万五千部くらいをVANが買い取ってた。
VANはそれを小売屋さんに買ってもらって、小売屋さんは、それを販促に使っていた。
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くろす そうでしたね。VANが何割かを買い取る、
その代わりVAN以外の広告を載せないという契約でした。
僕らは『メンズクラブ』を商品のひとつとしてシャツやブレザーと同じ扱いで、
注文を取っていましたから。あれはいいアイデアでしたね。
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石津 読者だって、読んでるわけではない。持ってるだけだったんだ。
それがカッコいいという風になっちやった。
僕はそれを見て「VANもいけそうだな」と思ったね。
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くろす 『メンズクラブ』の大判を国際版なんて言ってましたよね。
『メンズクラブ』に〃街のアイビーリーガース〃の連載を始めたのが六三年ですが、
そのころになると、量的にもまとまってきたなという、
一種の手ごたえを感じはじめましたね。
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・石津謙介、警視庁に出頭・
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石津 そういえば、警視庁に呼ばれたことがあったなあ。
みゆき族が銀座の街に出てきたとき。彼らが銀座に出てきて、
気に入った女の子を見つけると、さっとポーズとってね、まあ、ナンパってやつだね。
いわば気取るだけなんだから、これだけでは讐視庁も取り締まりの対象にならない。
でも、銀座の商店街のほうから文句が出た。
「VANがやらしているんだろう、なんとかしてくれ」と、警視庁から言ってきてね。
それで、讐視庁に頼んで、僕の名前の入ったポスターをはらしてもらった。
VANから〃アイビー大集合〃という原画を出して。
讐視庁がヤマハホールを借り、表向きはVANがやろという形にしてイベントをもった。
そうしたら、立ち見が出るほどの盛況でね。
それで、最後に僕が出ていって、事情を話して、
ああいうことはやめてくれと言ったら、その翌々日くらいからパッタリと来なくなったんだ。
警視庁は「なんで暴カ団の親分みたいなまねができるんだ」と、ビックリしちゃった。
それからすぐに僕は讐視庁の嘱託になったんだ。
功績を認められた。(笑)
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・KENTの時代・1966
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くろす Kentを始めたのが66年ですね。
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石津 あのころ、なんとなくこれじゃイカンと思ってね。
買ってくれるお客の年齢層がどんどん下降してきて、
頭が軽くなっていると感じはじめたんだ。
それで新しいブランドを作らなければと、Kentを始めたんだけど、
まあ、それも難しく考えたわけじゃない。
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くろす でも、初めは難しかったですね。
VANとどこで差別化をするかというのが難しかった。
最初のうちは、KentもVANと同じ生地を使っていましたから。
小売屋さんでVANとKentのネームを外されて、どっちがどっちだなんて、
聞かれたりしましたもの。ボタンダウンのシャツの形を変えろといっても、
変えられるものではないでしょう。
今のようにポケットにロゴをつけるなんて、
思いつかなかったですからね。
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石津 VANボーイズ、VANブラザーズ、VANミニと、いろいろやっていったな。
どんどんセグメントしていった。
Kentは、VANを卒業した人のためのものだったから、
VANの名前はつけなかったけれども。
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くろす そういうのも大体は66、7年でしたね。
セグメントしていって、サイズだけ違う。形は同じでもね
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石津 そのほうが合理的だと思ったんだ。
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くろす 下は3歳くらいから、上は5、60歳までVANのブランドで
全部カバーできたわけですからね。
あの当時、普通の発想では思いつかないことでしたよ。
l型、2型というスーツにしても、色に番号をつけたのにしても、
VANが考えついたものですが、みんなまねを始めたでしょう。
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石津 そう。みんなVANの発明だと思わないで、
イギリスやアメリカのものと思い込んでいたんだろうな。
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・アイビーのマーケッテイング思想・
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くろす アイビーはいろんな分野に影響を与えて、
マーケットを広げていきましたね。
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石津 生活関連商品という発想は、僕にはちゃんとあったんだ。
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くろす 思いつきだけでやってたような感じがするけれども、
あのころのVANの社内には、僕だけでなく、
いろんな発想をするやつがいっばいいましたもの。
みんなアメリカかぶれで、アメリカ的なものはなんでもやりたがっていた。
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石津 思いつきだけども、一つの思想のなかでの思いつきだったから、
まとまったものができたんだな。
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くろす 僕らはマーケティングなんて言葉も知らずに、やっていましたから。
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石津 コカコーラの宣伝だって、VANのまねをしてたね。
〃週に一度はスポーツを〃だったかな。
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くろす 素人の集団があれほどのものを作ったんだから、
すごい集団だったなと思いますよ。
僕らは自分たちでアメリカを作っていたという感じでしたね。

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・アイビー、トラッドの未来・
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石津 ところで、これから先のことを見通すと、
アイビー、トラッドはなくなりはしないだろうけれど、
今までのようなものではないだろうという気がするね。
本能的なところ、生理的なレベルでトラッドに対する好みはあるだろうから、
なくなることはないと思う。でも、これからは着こなしの時代だね。
なにかことさらに新しいものが出てくるということではなくて、
いろんな服が混在する時代になって、
そのなかにトラッドやアイビーの服もあるということなんだろうね。
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くろす しかし、これだけ日本に定着したというのは、
やはり日本人のテイストに合っていたんじゃないかと思いますよ。
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石津 日本人には一番分かりやすいんだよ。
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くろす 日本の風土に完全に溶け込みましたね。
現在定番といわれる服はほとんどアイビー、トラッド系ですから。
問題はやはり着こなしですね。ポロシャツにしても、
チノパンにしても単品として残っていって、
それをどう着こなすか、なんでしょうね。
日本のユーザーは賢いから、うまくバランスをとっていくでしょう。
日本経済新聞社「永遠のIVY展」プログラムより |
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